北森鴻氏の「冬狐堂シリーズ」の3・4作目となる『緋友禅』『瑠璃の契り』。
1・2作目の『狐罠』『狐闇』 は長編でしたが、今回の2冊はそれぞれ4編ずつの短編集ということもあり、けっこう早く読めました。
前作の『狐闇』は作者の他の作品のキャラクターも多数登場するオールスター的作品でしたが、「冬狐堂シリーズ」の位置づけがそうなったのか、この2作でも他の作品のキャラクターが登場。
短編集『孔雀狂想曲』の骨董品屋・雅蘭堂の店主、越名集治はもうこちらのシリーズでは重要なサブキャラクターとなっていますし、『瑠璃の契り』の最後に収められている「黒髪のクピド」ではまた別のシリーズの主人公も重要な役割を担当。
『瑠璃の契り』の解説で佐藤俊樹氏も書かれていますが、ミステリは最後に謎が解かれると空虚感を覚えるものが多いですが、他のシリーズでバックグラウンド等が描かれた上で登場してくる本作品では、キャラクター達の"思惑"などを考えていくと、そういった空虚感は感じない作品でした。
これはミステリの読後感としてはけっこう希有な感覚でしたが。
骨董を商う主人公、宇佐見陶子の過去が語られる部分も多いですが、まだまだなにかあると思わせるのは作者の技術なのでしょうねぇ。
作中で主人公の宇佐見陶子が、骨董業の命ともいえる眼を患う場面があり、そこでも語られていますが骨董業者の「目が利く」というのも普通の視力があってというのが大前提。
骨董業者を主人公にしてのストーリーとしてはずいぶんな展開にするな、と思いましたが、
音楽に置き換えてみると、音楽の大海に頭の先まで浸かって溺死しかけている(爆)自分も、普通の聴力があって初めて成立している話。
まあもし聴力を失ったらという仮定は、結局1か0かってことになると思うんですが、「目が利く」を音に置き換えてみるのはなかなか面白い。
もちろん骨董を含めた美術の「目が利く」は、知識の部分が大きいはずですが。
自分は、音楽を聴く上での(生物的な)聴力ってのはほとんどの人に大差はないと思っているんですが。加齢で高域が聴こえなくなってくるってのはあるにしても。
音楽を聴いて、それぞれの楽器がなにをやっているかが判別出来るかとか、メロディと和音とが聞き取れるかとかが"音楽的な"聴力の良さにあたるんだと思います。
ただ音の場合は、ヘッドホン・スピーカーの違いを聞き分けられたり、ギターの種類(ストラトとテレキャスとか)を聞き分けられたりする"音質的な"聴力の良さというのが別にあるというのが面白いところ。こちらの方が聴力という単語の一般的な意味に近いと思いますが。
まあこのいずれの聴力も他人と全くの共有・共感を出来ないってのは面白くもあり残念な部分でもあり。
学生の頃から(音楽的な)イヤートレーニングをやってきていても、今現在耳が良い方とはとても思えませんが、実際に他人と比較する方法はあまりない。
ただ、同じ音楽を聴いても、例えばバッハと自分にはまったく違う聴こえ方をしているのは確実なんだろうなぁってのは、あまりに虚しいんですが(笑)。
そんな、美術と音楽とを重ね合わせたり、他にも色々と思わされる短編集2冊でした。
たぶんこのあとの「冬狐堂シリーズ」も、他シリーズのキャラクターが行き交う路線で進んでいったと思うのですが、同時進行されていく他のシリーズで、さらにバックグラウンドを肉付けされたキャラクター達が絡んでいったであろう続編は、ぜひ読んでみたかったですねぇ。