2016年02月21日

北森鴻・浅野里沙子 / 邪馬台 蓮丈那智フィールドファイルIV

ようやく読み終えた、北森鴻・浅野里沙子共著の『邪馬台 蓮丈那智フィールドファイルIV(2011年)』。

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作品は、『孔雀狂想曲』の越名集治「旗師・冬狐堂シリーズ」の宇佐見陶子に「香菜里屋シリーズ」の"バー香月"等々の、北森作品のキャラクターや場所が登場し、しかも彼らの視点からストーリーが進むことも多いという、北森鴻作品を多く読んでいるものにはより面白みが深まるという組み立て。
「蓮丈那智フィールドファイルシリーズ」と「旗師・冬狐堂シリーズ」は、お互いのキャラクターが行き来する作品も多かったので、北森鴻氏がさらに多くの作品を作っていけば、手塚治虫作品や赤塚不二夫作品のようなキャラクター展開になったかもしれないということは、非常に惜しいことに思ったり。


"誰がどのように殺されたか"というような一般的なミステリとは違いこの作品の主題は、奇妙な文書「阿久仁村遺聞」の解明と、そこからつながる非常に大きなテーマ"邪馬台国"についての考察。
結末に納得出来る部分はありながらも、現実に結論の出ている事柄ではないので、もちろんこれは北森鴻氏の史観ということですが。


文庫版で全650ページの作品のうち生前の北森鴻氏が書いたのは437ページまでで、残りの約1/3は浅野里沙子氏が引き継いで完成させたもの。
文体等に違和感はないものの、北森鴻氏の頭にあったのはまた別のクライマックスだったのかも???という想像もできるのですが、これは浅野里沙子氏への不満ではなくてこちらの想像力を刺激してくれたということでの興味。
未完で終わってしまったかもしれない、「蓮丈那智フィールドファイルシリーズ」の最初で最後の長編作品を完成させてくれたことには感謝しかできないのではないかと。


北森鴻氏の新作はもう出ませんが、今までの傑作を読み返すことは永遠と出来る。
まずは、この作品につながる「旗師・冬狐堂シリーズ」の『狐闇』を読み返してみようかと思っています。  

Posted by toshihiko_watanabe at 23:51Comments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加

2016年01月23日

邪馬台 蓮丈那智フィールドファイルIV、の前に

けっこう前から積んだままになってしまっていた、北森鴻・浅野里沙子共著の『邪馬台 蓮丈那智フィールドファイルIV(2011年)』。2010年に北森鴻氏が急逝したあとに浅野里沙子氏が引き継いで完成させた作品。
文庫本で約650ページという、シリーズ最初にして最後の長編作品なので、本の厚さにしても最終作ということにしても読み始めるのに思い切りがいる感じだったのですが、いい加減読み始めようかと。
明後日25日が、北森鴻氏の命日ということに気づいたということもあるのですが。

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しかしそれ以前のシリーズも、各本約300ページほどの短編集ということもあるし、読んでから『邪馬台』へいこうかということで、『凶笑面(2000年)』『触身仏(2002年)』『写楽・考(2005年)』の3冊を引っ張り出してきてしまった(爆)。

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以前読んで以来読み返していないので、まあいい機会かと。
しかし危ないのは、蓮丈那智も登場する「旗師・冬狐堂」シリーズまで読み返しに入ってしまうかもというのが(汗)。  
Posted by toshihiko_watanabe at 22:13Comments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加

2010年06月04日

北森鴻 / 蓮丈那智フィールドファイルシリーズ

今年1月に亡くなってしまった北森鴻氏が2000〜2005年に書いた「蓮丈那智フィールドファイル」シリーズの3冊、
凶笑面』『触身仏』『写楽・考』。
3冊をけっこう一気に読んでしまいました。

Kyousyoumen Syokushinbutsu  Syarakukou

「異端の女性民俗学者」蓮丈那智と助手の内藤三國をそれぞれホームズとワトソン役にして、おそらく今後他に書く人は現れないであろう民俗学ミステリというジャンルで書かれたこのシリーズ。

3冊共に短編集ですが、『凶笑面』は(解説で法月綸太郎氏が書いているけど)、

「学術調査の依頼→現場での事件→それぞれのディスカッション→民俗学・事件それぞれの解決」

というある程度一貫したスタイルが用いられているものの、1冊ごとにスタイルはやや変化をみせるという。
しかし読んでいても思いますが、通常のミステリにあるトリックに加えて民俗学の舞台で展開させるストーリーを編むのは相当な労力が必要だったと思われます。
もちろんその労力は読み応えという点にはっきり反映されているのではないかと。

このシリーズで扱われている民俗学のテーマというのは、例えばだいだらぼっちの伝説であったり浦島太郎の昔話であったりわらしべ長者の話であったりするのですが、これらはまだ明るい話が基本線ではあるものの、
個人的な印象かもしれませんが、日本の、民俗学で扱われるような昔話というのはなにか漆黒の暗さ、湿っぽさを感じるように思います。
おそらくは明治以降の西洋流の教育で、日本人の感覚が変えられてきているせいではないかとも思うのですが。

例えば(このシリーズでも取り上げられていますが)外国のミイラより日本の即身仏に深い闇を感じるように思いますし、素戔嗚尊(すさのおのみこと)等の伝説にも同じような薄暗さを感じます。
また江戸時代以前の夜というのはそれ以降と比べてとてつもなく暗かったのではないかという印象があります。もちろん実際には違うと思いますが。
だから技術の進歩を喜ばなければならないというようなメッセージが近代の教育にあるのかもしれませんが。

そういった日本人独自の民俗学に対する印象というのを逆手に取ってのこのシリーズのバックグラウンドですし、またこの難しい設定での作品作りは大成功していると思います。


作家という以前に、1人の人間が亡くなったのを悼むのは当然ですが、作家の方が亡くなった場合は、やはりもう続編が読めないということへの失望感が追悼の想いに正比例するかと思います。


この3冊は短編集でしたが、2巻の最後から女性の助手が1人増えたり教務部主任の元民俗学者の男が深く関わってきたりと巻を重ねるごとに新しい展開を見せていたシリーズ。北森鴻氏の他のシリーズのキャラクターが登場したりもしていましたし。
長編の構想もあったそうで、やはり続編が読めることが永久にないというのは、本当に非常に残念に思います。
  
Posted by toshihiko_watanabe at 00:01Comments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加